端午の節句特集の第5回目。
今回は今までと少し趣向を変えて、陶磁器の銘品「九谷焼」による五月人形、兜商品です。
九谷焼ならではの鮮やかな色彩・伝統美を堪能出来る、逸品です。
お値段お手頃な感じで、本格的な五月人形とはまた味わいが違いますが、お薦めの品です。
端午の節句は五節句の一つで、現在は5月5日の事を指します。
「菖蒲の節句」とも呼ばれ、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を連想させる事から、男子の健やかな成長を祈願する大切な行事として位置付けられています。
鎧、兜、刀、武者人形を模した五月人形を飾りますが、鎧、兜は元来身体防具として身を守るもの。端午の節句では、災いから子供の身を守り、代わりに厄を受け取るいわば、「お守り」の役目があり、美しき日本の風習を製品と共に現代に伝えます。五月人形は、武将のように強くたくましく立派な人間になるように願いを込めて飾ります。
男の子の初節句の記念品として最適な、匠の技による、迫力と秀麗を兼ね備えた五月人形。
お子様やお孫様の健やかな成長を願う贈り物として、また、海外への贈答品として、お薦めの逸品です。
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(売り切れの場合はご容赦下さい)
九谷焼とは
九谷焼の歴史は、江戸時代初期の1655(明暦元)年ごろにさかのぼります。加賀の支藩だった大聖寺藩の初代藩主・前田利治(まえだ・としはる)が、領内の九谷(現在の石川県山中町九谷)の金山で磁鉱が発見されたのに着目し、金山で錬金の役を務めていた後藤才次郎に命じて肥前有田で製陶を学ばせました。その技術を導入し、九谷に窯を築いたのが始まりとされています。
九谷の窯は1730(享保15)年ごろに突然、閉じられてしまいましたが、原因はいまだに定かではありません。この間に焼かれたものが後世、古九谷(こくたに)と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として独特の力強い様式美が高く評価されています。
古九谷の廃窯から約80年後、加賀藩営で金沢に春日山(かすがやま)窯が開かれ、再興九谷の時代に入りました。春日山窯の木米(もくべい)風、古九谷の再興を目指した吉田屋窯、赤絵細描画の宮本窯、金襴手の永楽(えいらく)窯など数多くの窯が出現し、それぞれに素晴らしい画風を作り出してきました。
明治時代に入ってからは、九谷庄三(くたに・しょうざ)の彩色金襴手が有名となり、大量の九谷焼が海外へ輸出されました。今日の九谷焼は、各時代の窯の上絵付けの作風を源流に、以前にも増して活発な生産が続けられています。
九谷焼の歴史は、江戸時代初期の1655(明暦元)年ごろにさかのぼります。加賀の支藩だった大聖寺藩の初代藩主・前田利治(まえだ・としはる)が、領内の九谷(現在の石川県山中町九谷)の金山で磁鉱が発見されたのに着目し、金山で錬金の役を務めていた後藤才次郎に命じて肥前有田で製陶を学ばせました。その技術を導入し、九谷に窯を築いたのが始まりとされています。
九谷の窯は1730(享保15)年ごろに突然、閉じられてしまいましたが、原因はいまだに定かではありません。この間に焼かれたものが後世、古九谷(こくたに)と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として独特の力強い様式美が高く評価されています。
古九谷の廃窯から約80年後、加賀藩営で金沢に春日山(かすがやま)窯が開かれ、再興九谷の時代に入りました。春日山窯の木米(もくべい)風、古九谷の再興を目指した吉田屋窯、赤絵細描画の宮本窯、金襴手の永楽(えいらく)窯など数多くの窯が出現し、それぞれに素晴らしい画風を作り出してきました。
明治時代に入ってからは、九谷庄三(くたに・しょうざ)の彩色金襴手が有名となり、大量の九谷焼が海外へ輸出されました。今日の九谷焼は、各時代の窯の上絵付けの作風を源流に、以前にも増して活発な生産が続けられています。