空梅雨な感じです。
暑いですね。
引き続き、父の日の贈り物特集です。
6月の第3日曜日の「父の日」。2013年の父の日は、6月16日です。
「父の日特集」として、父の日のお祝い・贈答に相応しい伝統工芸品をご紹介してます。
今回は、やきもの・陶磁器工芸品による「酒器」を紹介します。
日本を代表する陶磁器工芸品の数々です。
やきものの素材感・優しさが伝わる陶磁器の酒器。日頃の感謝の気持ちを込めて、父の日のプレゼント・ギフトに相応しい品です。
※下記の写真をクリックすると、美しい拡大写真がご覧になれます。
また拡大写真をクリックすると、その商品の販売サイトにジャンプします。
(売り切れの場合はご容赦下さい)
※拡大表示された画像は、右上の「X」ボタンをクリックするか、escキーで元に戻ります。
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九谷焼 |
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萩焼 |
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有田焼 |
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九谷焼とは
九谷焼の歴史は、江戸時代初期の1655(明暦元)年ごろにさかのぼります。加賀の支藩だった大聖寺藩の初代藩主・前田利治(まえだ・としはる)が、領内の九谷(現在の石川県山中町九谷)の金山で磁鉱が発見されたのに着目し、金山で錬金の役を務めていた後藤才次郎に命じて肥前有田で製陶を学ばせました。その技術を導入し、九谷に窯を築いたのが始まりとされています。
九谷の窯は1730(享保15)年ごろに突然、閉じられてしまいましたが、原因はいまだに定かではありません。この間に焼かれたものが後世、古九谷(こくたに)と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として独特の力強い様式美が高く評価されています。
古九谷の廃窯から約80年後、加賀藩営で金沢に春日山(かすがやま)窯が開かれ、再興九谷の時代に入りました。春日山窯の木米(もくべい)風、古九谷の再興を目指した吉田屋窯、赤絵細描画の宮本窯、金襴手の永楽(えいらく)窯など数多くの窯が出現し、それぞれに素晴らしい画風を作り出してきました。
明治時代に入ってからは、九谷庄三(くたに・しょうざ)の彩色金襴手が有名となり、大量の九谷焼が海外へ輸出されました。今日の九谷焼は、各時代の窯の上絵付けの作風を源流に、以前にも増して活発な生産が続けられています。
九谷焼の歴史は、江戸時代初期の1655(明暦元)年ごろにさかのぼります。加賀の支藩だった大聖寺藩の初代藩主・前田利治(まえだ・としはる)が、領内の九谷(現在の石川県山中町九谷)の金山で磁鉱が発見されたのに着目し、金山で錬金の役を務めていた後藤才次郎に命じて肥前有田で製陶を学ばせました。その技術を導入し、九谷に窯を築いたのが始まりとされています。
九谷の窯は1730(享保15)年ごろに突然、閉じられてしまいましたが、原因はいまだに定かではありません。この間に焼かれたものが後世、古九谷(こくたに)と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として独特の力強い様式美が高く評価されています。
古九谷の廃窯から約80年後、加賀藩営で金沢に春日山(かすがやま)窯が開かれ、再興九谷の時代に入りました。春日山窯の木米(もくべい)風、古九谷の再興を目指した吉田屋窯、赤絵細描画の宮本窯、金襴手の永楽(えいらく)窯など数多くの窯が出現し、それぞれに素晴らしい画風を作り出してきました。
明治時代に入ってからは、九谷庄三(くたに・しょうざ)の彩色金襴手が有名となり、大量の九谷焼が海外へ輸出されました。今日の九谷焼は、各時代の窯の上絵付けの作風を源流に、以前にも増して活発な生産が続けられています。
茶人好みの器、萩焼
萩焼は、古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物です。萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」があります。貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることです。
一楽 二萩 三唐津
萩焼は焼き上がりが軽く、装飾面も素朴で、わび茶のムードによく似合います。このため、全体としての柔らかさの点で京都楽焼には及び難いが、がっしりと焼きが固く、絵付けの華やかな唐津茶碗よりは茶陶としては優れていると言われています。 また、萩焼は焼き上がりが柔らかいので、水洗い、持ち運びなどに際して壊れやすいという難点もありますが、萩焼より柔らかな楽焼きの取り扱いには最新の注意を払うという必要があり、唐津ほど適当に取り扱えないと言われています。
萩の七化け
萩焼の胎土(原土)には浸透性があり、しかも低火度焼成で焼き締まりが少ないため、使用するにつれて比較的短期間に表面釉薬の貫入を通して茶がしみ込み、器体の内外ともに色合いが変化してきます。1つの茶碗を大切に使っていくと、その色、つやが時代とともに微妙に変化して何とも言えない風情を醸し出します。茶人の間では、この変化を珍重して「萩の七化け」と称されています。
萩焼は、古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物です。萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」があります。貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることです。
一楽 二萩 三唐津
萩焼は焼き上がりが軽く、装飾面も素朴で、わび茶のムードによく似合います。このため、全体としての柔らかさの点で京都楽焼には及び難いが、がっしりと焼きが固く、絵付けの華やかな唐津茶碗よりは茶陶としては優れていると言われています。 また、萩焼は焼き上がりが柔らかいので、水洗い、持ち運びなどに際して壊れやすいという難点もありますが、萩焼より柔らかな楽焼きの取り扱いには最新の注意を払うという必要があり、唐津ほど適当に取り扱えないと言われています。
萩の七化け
萩焼の胎土(原土)には浸透性があり、しかも低火度焼成で焼き締まりが少ないため、使用するにつれて比較的短期間に表面釉薬の貫入を通して茶がしみ込み、器体の内外ともに色合いが変化してきます。1つの茶碗を大切に使っていくと、その色、つやが時代とともに微妙に変化して何とも言えない風情を醸し出します。茶人の間では、この変化を珍重して「萩の七化け」と称されています。
日本磁器発祥の地、有田焼
有田焼とは、現在の有田町やその周辺で生産された磁器の総称で、江戸時代には、有田皿山で作られた製品が伊万里港から積み出されたために「伊万里焼」または「伊万里」と呼ばれました。
豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した文禄の役(1592)・慶長の役(1597)の後、朝鮮半島から多くの陶工達が渡来、彼らによって日本の各地で次々と開窯されました。
とくに有田では17世紀初頭に有田泉山で良質の磁器原料が発見され、日本で最初に磁器が焼かれたところです。
その後、寛永14年(1637)に鍋島藩が伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在に知られている有田皿山の体制を整えていったのです。
有田焼とは、現在の有田町やその周辺で生産された磁器の総称で、江戸時代には、有田皿山で作られた製品が伊万里港から積み出されたために「伊万里焼」または「伊万里」と呼ばれました。
豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した文禄の役(1592)・慶長の役(1597)の後、朝鮮半島から多くの陶工達が渡来、彼らによって日本の各地で次々と開窯されました。
とくに有田では17世紀初頭に有田泉山で良質の磁器原料が発見され、日本で最初に磁器が焼かれたところです。
その後、寛永14年(1637)に鍋島藩が伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在に知られている有田皿山の体制を整えていったのです。