暑いですね。
今日は子供の運動会で、かなり日焼けです。
有田焼の林九郎窯を紹介して来ましたが、今日は同じく有田焼のそうた窯の作品を特集します。
「そうた窯」は、諸隈直哉により平成9年開窯。
窯名は曾祖父 山口惣太左衛門にちなんでつけられました。
料亭や旅館で使われる割烹食器が主流であった有田焼業界の中で家庭で使う食器をつくる窯を開きました。毎日使っても飽きがこない器を作るために、ロクロ目など手に馴染む形。そして、絵付けは染付を中心に古典柄をモダンテイストにアレンジした独創的な文様。これらを惣太窯のコンセプトとして日々制作を行っています。手作りの器ならではのぬくもりが感じられる品です。
優しい色合いの色絵が、柔らかさといつまでも飽きの来ない美しさを醸し出しています。ギフトや贈答品、おもてなしの品としても相応しい伝統工芸の逸品。
※下記の写真をクリックすると、美しい拡大写真がご覧になれます。
また拡大写真をクリックすると、その商品の販売サイトにジャンプします。
(売り切れの場合はご容赦下さい)
※拡大表示された画像は、右上の「X」ボタンをクリックするか、escキーで元に戻ります。
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日本磁器発祥の地、有田焼
有田焼とは、現在の有田町やその周辺で生産された磁器の総称で、江戸時代には、有田皿山で作られた製品が伊万里港から積み出されたために「伊万里焼」または「伊万里」と呼ばれました。
豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した文禄の役(1592)・慶長の役(1597)の後、朝鮮半島から多くの陶工達が渡来、彼らによって日本の各地で次々と開窯されました。
とくに有田では17世紀初頭に有田泉山で良質の磁器原料が発見され、日本で最初に磁器が焼かれたところです。
その後、寛永14年(1637)に鍋島藩が伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在に知られている有田皿山の体制を整えていったのです。
そうた窯の器づくり
有田伝統の技法を用いながら、モダンで現代の生活にも馴染む食器作りを目指して、有田郊外の工房で制作される器たち。
ロクロ目をあえて残す事で手の動きが器に残り持った手にも しっくり馴染むように、器は底にいくほど厚みを出すことで安定感も増すようになど、何カ月も時間をかけながら知恵を絞り、お客様に満足していただける器作りを心がけています。
伝統文様をモダンテイストにアレンジした染付。手に馴染む使いやすいフォルム。
そうた窯は、いつも使う人の気持ちを一番に考えて、有田焼の「今」を毎日の食卓にお届けします。
有田焼とは、現在の有田町やその周辺で生産された磁器の総称で、江戸時代には、有田皿山で作られた製品が伊万里港から積み出されたために「伊万里焼」または「伊万里」と呼ばれました。
豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した文禄の役(1592)・慶長の役(1597)の後、朝鮮半島から多くの陶工達が渡来、彼らによって日本の各地で次々と開窯されました。
とくに有田では17世紀初頭に有田泉山で良質の磁器原料が発見され、日本で最初に磁器が焼かれたところです。
その後、寛永14年(1637)に鍋島藩が伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在に知られている有田皿山の体制を整えていったのです。
そうた窯の器づくり
有田伝統の技法を用いながら、モダンで現代の生活にも馴染む食器作りを目指して、有田郊外の工房で制作される器たち。
ロクロ目をあえて残す事で手の動きが器に残り持った手にも しっくり馴染むように、器は底にいくほど厚みを出すことで安定感も増すようになど、何カ月も時間をかけながら知恵を絞り、お客様に満足していただける器作りを心がけています。
伝統文様をモダンテイストにアレンジした染付。手に馴染む使いやすいフォルム。
そうた窯は、いつも使う人の気持ちを一番に考えて、有田焼の「今」を毎日の食卓にお届けします。